インターネットと陰謀論インターネットと陰謀論人間というのは点と点が近くにあると結びつけてしまう。 推理小説を考えるといい。個々の事実は互いに無関係に見えるがフィルターを通して見ると結びついて見える。 これは推理小説というより、歴史というもの自体に内在する性質だ。歴史を編纂する側のフィルターを通して、点在する事実の群が相互に意味あるものとして編まれる。 点と点を結びつけるものは、時代精神であったり、経済システムや国家システムの消長であったり、技術革新を支えるもろもろのファクターであったりするのだろう。 あるいは、夜空の星座のようにたまたま互いに近くに見えるだけであって、見る側が意味を感じるだけであることが極端にはっきりしている例もあったりする。 星座の場合は、点と点をつなげるのはたまたま互いに近くにあって、神話的な位置関係をたまたま形作っていた。 個々の星の光年数はテンでバラバラだし、たまたま地球から見た位置関係がコンステレーションをなしているだけ。 なのに見る側の人間は、線を引いて、できたかたまりに固有名詞を付与して、物語の舞台装置にしてしまったりする。 歴史的事実のコンステレーションも同様で、人間というのはこういうものだから一群の事件を歴史という物語の舞台装置にしてしまう。 で、陰謀論も同じではないかというのがいいたかったこと。一群の事実を物語の舞台装置にしてしまうという点で同じ構造なのだ。 ただし、洗練された仮説ではなく、図式的で雑駁な感じのする、大胆で刺激の強い仮説だ。どんな仮説を立てるのも自由だが、最低限、反証可能性だけは残しておいてもらわないと議論の遡上にも乗らないワな。 反証可能性がキーワードだ。 こいつのない陰謀論は取り上げるに足りない仮説だ。放言に近い与太話だとか、悪意に満ちたプロパガンダだとかいったレッテルが貼られ、徹底的に無視される。 いいものを持っているんだけどね。 ところで、ネット空間における陰謀論はインパクトがある。少し考えてみよう。 ネット上では匿名記事が一般的だ。また、レトリックを凝らした言説が支持される傾向がある。 もちろん、その主張の質は玉石混交だ。しかし、ネット上では玉も石も等価である。つまり、見出しの大きさや放映時間の長短というような、編集による重みづけがなされない。 ネット空間とはこのように一切の制約から自由な言説が等しくせめぎあう世界だ。 このような世界において、白か黒か、敵か味方か、善か悪かという二分論は、そのシンプルな論理ゆえ、インパクトが強く、大衆ウケしやすい。 ネット上で陰謀論が流通するのはこのような背景があると思われる。 そもそもネット上で特定の言説が流通するには、真偽などあまり関係なく、大衆ウケする説得力さえあればよい。 そして、その説得力は、二分論のようなシンプルさと客観性を装う外観さえ整っていれば、あとは衝撃的な事実をあれでもかこれでもかと並べ立てることによって、容易に獲得できる。 また、その感染力は結構強い。 一旦、そういう言説に憑りつかれてしまうとまるでゾンビのように、今度はそういうフィルターを通して、ものごとを見てしまうようになる。しかも憑りつかれた本人には通常そういう自覚がない。次々とゾンビがゾンビを産んでいくのだ。 こうして、陰謀論はネット上で加速度的に流通しはじめる。そしてある閾値を越えるとリアルの世界に伝播する。 しかし、陰謀論が主張する事実は、全てがウソだとして、全否定しているワケではない。完全に根拠のないデタラメなのか判断がつかないというのが正直なところだ。 100%否定してしまって、陰謀論の烙印を押して、無視していればいいという楽天性は持ち合わせていない。 全否定するのは多分行き過ぎで、拾い上げるべき真実はきっとあるような気もするからだ。 そこのところを評価し、切り分けるプロの出現が待たれるところだ。こうしたプロ待望論は、やがてリアルの世界にも影響を及ぼして行くような予感がしている。 2008年2月2日 根賀源三 |